北陸地方は、「日本海沿岸の地方勢力」として、他の地方からは半ば独立した歴史を歩んで来た。
古代
古代の北陸地方は越国(こしのくに)や陸道(くぬがのみち)と呼ばれており地方勢力の一つであった。「越国」とあるが中央勢力の影響圏外であり資料が少なく、統一された国家であったかは不明である。伝説の大蛇「八岐大蛇」が越国から現れたと伝えられ、出雲王権の特徴である四隅突出型墳丘墓が福井県や富山県などに見られることや、出雲崎(新潟県中部)などの地名の名残から、出雲文化の影響が強く見られる。
ヤマト王権の大彦命が越国を鎮めると、次第に中央集権の枠組みに取り込まれていく。ヤマト王権が中央集権型統一国家を成立させると、中央である畿内を防衛するため周辺に関所が設置された。当時の東方を守る三関は、「東海道の鈴鹿関(鈴鹿峠)」「東山道の不破関(関ヶ原)」「北陸道の愛発関(愛発山)」を指していたので、律令時代には、若狭国(嶺南)から東の日本海沿岸が越国と見なされていた。
越国は、ヤマト王権の勢力に組み込まれると詳細に3つの領域に区分された。令制国の国府所在地を見ると、越前国は武生、越中国は伏木(高岡市北部)、越後国は直江津(上越市北部)に当たる。この国府所在地の位置により、当時のヤマト王権の支配領域は、東は概ね頸城地方までで、それ以北は領土外であった。しかし、後に支配領域を伸ばすと、天険たる鼠ヶ関と越後山脈が北陸道の北限となり、越国から分離される形で出羽国が設置された。越前国から分離した能登国成立の時期に開山し室町時代末期まで巨大な宗教都市として勢力を誇った平泉寺はこの時代の独立した集団として捉えられる。
中世
鎌倉時代から室町時代まで
親鸞が直江津に流刑されて以来、北陸地方は浄土真宗の地盤となり、仏教勢力が力を揮う事になった。その頂点が加賀の一向一揆であり、この他にも永平寺などの有名寺院が立地するようになった。
戦国時代
戦国時代の北陸地方は、上杉謙信(春日山。上越市中部)、前田氏(金沢)、佐々成政(富山)、柴田勝家(福井)などの本拠地となった。
江戸時代
江戸時代
江戸時代になると、幕藩体制が敷かれ富山(越中)は能登とともに加賀藩の直接的、間接的支配下にあり、政治的な影響下にあった。「加賀百万石」と呼ばれた前田氏の金沢藩を初めとして、前田氏の分家に当たる富山藩、越前松平氏の福井藩、牧野氏の長岡藩などが有名である。廃藩置県の際に富山と石川は同じ県になる案があったが、両地域で分県運動がおこり、別々の県として独立した。浄土真宗への帰依が深い北陸では堕胎・間引きを忌んだ事などから、人口増加率が高く全国に移住者を出し続けた。
収穫された米を近畿へ運ぶための海上交通として多くの北前船が就航した。江戸時代の北陸道は「北国街道」と呼ばれ、善光寺参拝の道でもあった。
幕末
幕末になり、開国を迎えると、新潟が開港五港の一つとなって盛え始める。長岡藩など奥羽越列藩同盟に加わる藩が現れ、戊辰戦争では薩長軍と敵対したが、敗北した。
明治維新以後
明治維新から第二次大戦まで
江戸幕府が崩壊し、明治政府が中央集権国家を成立させると、廃藩置県で多くの県が成立した。
現在の新潟県には、新潟県(下越地方)、相川県(佐渡島)、柏崎県(中越地方と上越地方)が分立したが、1873年6月10日には新潟県に編入された。現在の北陸3県には、新川県(現富山県)や石川県や足羽県(嶺北)が分立したが、1876年8月21日には全て石川県に編入された。しかし、各地の分県運動の結果、1881年2月7日には石川県から嶺北が福井県として分離され、1883年には石川県から旧新川県が富山県として分離された。嶺南は、1876年8月21日以後は滋賀県に編入されたが、1881年2月7日には滋賀県から分離されて福井県に編入された。
北海道開拓では、比較的人口が多く、さらに雪国の環境として適性のあった北陸出身者が多数移住し、実に全体の数の3割以上を占めた。
明治に入ると鉄道が建設され、東京を中心にした陸上交通網が整備された為、江戸時代まで交通網の主演だった北前船は衰えた。この為、明治以後は陸上交通が中心の経済体制が築かれて行った。
第二次大戦後
昭和
北陸地方は、国内でも有数の人口を持つ地方だったが、高度経済成長期に国土軸から漏れた結果、過疎化が顕在化した。しかし、田中角栄政権下で「太平洋ベルト地帯との格差の是正」が謳われ、北陸自動車道が建設され、北陸工業地域も形成された。これ以後は、それまでの「農業地域」から、「農工折衷型の地域」に変わり、日本海側最大規模の工業地域を持つようになった。
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